新しい都(みやこ)を建設(けんせつ)するためには、まず都としてふさわしいよい土地をさがさなければなりませんでした。
708(和銅・わどう 元年)2月15日、天皇(てんのう)が発表した文書には、「平城の地は、四神(ししん)に対応(たいおう)している地形であり、三山が鎮(しず)めをなしている地である」と、平城がよい土地であると記されています。占(うらな)いでも良い結果(けっか)がでたので、平城が遷都(せんと)の理想の地であるとされたのです。
四神とは、中国の古代思想にでてくる空想的動物で、玄武(げんぶ)、青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく)、白虎(びゃっこ)のことで、それぞれ北、東、南、西を表しています。四神に対応する地形とは、玄武は高山、青龍は流水(りゅうすい=かわ)、朱雀は沢畔(たくはん=ぬま)、白虎は大道のことです。
天皇の文書にある「三山の鎮め」を平城にあてはめると、北にある奈良山丘陵(ならやまきゅうりょう)、東の春日山(かすがやま)、西の矢田丘陵(やだきゅうりょう)の三つの山が、都を守っているということになります。また、南には盆地が広がっているため、天皇が都一帯を見わたせることも、平城が都として選ばれた理由のひとつであるといわれています。
平城京(へいじょうきょう)の建設(けんせつ)には、大々的な土木作業が必要でした。まず、奈良山丘陵の高いところを削(けず)り、低いところは埋(う)め立て、土地を整地(せいち)しました。そして、朱雀大路(すざくおおじ)を中心に左右に、南北に走る一坊(ぼう)から四坊の8つの大路、東西には一条大路(北・南)から九条大路の10大路がつくられました。さらに大路と大路の間には小路(こうじ)が通されました。
市街(しがい)地に排水路(はいすいろ)をつくるために、佐保川(さほがわ)や秋篠川(あきしのがわ)の流れを変え、新たに人工的に水路をつくりました。
宮殿や屋敷(やしき)を建てるために必要な木材は、藤原京(ふじわらきょう)から建物をうつしました。また、不足分は滋賀県(しがけん)の田上山(たなかみやま)から切り出し、筏(いかだ)にして宇治川(うじがわ)、木津川(きづがわ)を通り、木津で陸(りく)あげして都に運びました。
平城京への遷都(せんと)は、707(慶雲・けいうん 4)年に遷都の議論(ろんぎ)をし、710(和銅・わどう 3)年には遷都するという、かなり急なものでした。この早急な遷都を可能にしたのは、藤原京から多くの建物がうつされたからだといわれています。
平城京の大路・小路には、道の両側に、下水、排水の役目をもった溝(みぞ)をつくりました。排水は佐保川や人工的につくった川に流れこむようにつくられていました。