遣唐使(平城京)

▼遣唐使(けんとうし)
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海を渡った人

日本から唐(とう)への留学生(りゅうがくせい)

遣唐使イメージ

奈良時代には、遣唐使(けんとうし)といっしょにたくさんの留学生や僧侶(そうりょ)が海を渡(わた)り、唐の文化や仏教(ぶっきょう)を学びました。勉強を終えて日本に帰り、活躍(かつやく)した人もいれば、日本に帰れずに唐で亡(な)くなった人もいました。


井真成(せいしんせい、いのまさなり)

(生没年(せいぼつねん):699〜734)

今の大阪府藤井寺市(おおさかふふじいでらし)の出身で、717年、19歳(さい)のときに遣唐使と一緒(いっしょ)に唐に渡りました。優秀(ゆうしゅう)な学生だった井真成は、唐でも勉強にはげんでいましたが、唐での勉強を終える前に突然(とつぜん)亡くなってしまい、まわりの人々に惜(お)しまれたと伝(つた)えられています。

井真成の存在(そんざい)は最近(さいきん)まで知られていませんでしたが、2004年に中国の西北(シーベイ)大学で墓誌(ぼし)が発見され、注目されています。

墓誌(ぼし)…どんな人がお墓(はか)に入っているかをかいたもの。


吉備真備(きびのまきび)

(生没年:695(?)〜775)

吉備真備は二回唐に渡っています。一度目は717年、23歳の時で、このときは阿倍仲麻呂と同じ船でした。734年に一度帰国した真備は、たくさんの本や楽器(がっき)や武器(ぶき)など、珍(めずら)しい宝物をもちかえり、聖武天皇(しょうむてんのう)にさしあげました。

二回目に真備が唐に渡ったのは、57歳の時です。このときは留学生ではなく、遣唐使の副使(ふくし)という立場でした。真備は鑑真(がんじん)を日本に招(まね)こうとしましたが、唐の玄宗皇帝(げんそうこうてい)はそれを許(ゆる)しませんでした。しかし、真備は一計を案(あん)じ、鑑真を船に隠(かく)して唐を出ることに成功(せいこう)しました。


阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

(生没年:698〜770)

阿倍仲麻呂は20歳で唐に留学し、唐に渡る時の船の中では吉備真備と一緒でした。唐での仲麻呂は、有名な詩人の王維(おうい)や李白(りはく)と仲良(なかよ)くなり、唐の生活にとけこんでいきました。

吉備真備が一度目に日本に帰ったとき、仲麻呂は唐にのこりました。しかし、真備がもう一度唐にやってきた時、仲麻呂は故郷(こきょう)が恋(こい)しくなり、日本に帰ることを決めたといわれています。

しかし、仲麻呂が乗った船は、海流(かいりゅう)によって今のベトナムまで流されてしまいました。結局仲麻呂は日本に帰ることができず、唐の役人となって生涯(しょうがい)を終えました。


唐(とう)から日本への渡来者(とらいしゃ)

遣唐使の役目の一つは、唐の僧侶を日本に招(まね)くことでした。何人もの僧侶(そうりょ)が仏教を広めるため日本にやってきました。


道叡(どうせん)

(生没年(せいぼつねん):702〜760)

日本では奈良時代に入ってますます仏教が盛(さか)んになりましたが、「伝戒師(でんかいし)」という、仏教の決まりを教えてくれる特別(とくべつ)な僧侶が日本にはいませんでした。そこで遣唐使は、伝戒師を唐から招(まね)こうとしました。

道叡は唐の洛陽(らくよう)に住んでいましたが、日本から来た栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という二人の僧侶の頼(たの)みに応(おう)じて、736年に日本にやってきました。日本では、奈良の大安寺に住み、大仏が完成(かんせい)するときには「呪願師(じゅがんし)」という大切な役割を果(は)たしました。


鑑真(がんじん)

(生没年:688〜763)

鑑真は54歳(さい)のときに、日本の僧侶の頼みを聞いて、日本に行くことを決意しました。しかし、このとき鑑真の乗った船は航海(こうかい)に失敗(しっぱい)して、日本にたどりつくことはできませんでした。

それでも鑑真はあきらめず、それから何回も日本への航海に挑戦(ちょうせん)しました。そして11年後の743年、6回目の航海でついに日本に渡(わた)ることができました。何度も航海に失敗したせいで、このとき鑑真の目は見えなくなっていました。

日本に来た鑑真は東大寺に住み、たくさんの人に戒律(かいりつ)[仏教のきまり]を伝えました。また、東大寺戒壇院(かいだんいん)や唐招提寺(とうしょうだいじ)をつくったことでも有名です。