平城京(へいじょうきょう)に中に、お墓をつくることはかたく禁じられていましたので、お墓は平城京周辺の山や丘陵(きゅうりょう)につくられました。発掘調査(はっくつちょうさ)でも、平城京内では当時の人々のお墓はでていません。
聖武天皇(しょうむてんのう)や光明皇后(こうみょうこうごう)のお墓は佐保山(さほやま)に、長屋王(ながやおう)は矢田(やた)丘陵のふもとの平群(へぐり)にあります。
春日山(かすがやま)の東にある田原(たわら)の里には、貴族(きぞく)や役人の火葬墓(かそうぼ)がたくさんあります。『古事記(こじき)』という書物を編集(へんしゅう)した太安萬侶(おおのやすまろ)の火葬墓も、田原の里で発見されました。
日本で、火葬してほうむる習慣(しゅうかん)が始まるのは、700(文武・もんむ 3)年、僧(そう)の道昭(どうしょう)からだとされています。
また、貴族(きぞく)やくらいの高い役人は、出身地でお墓がみつかっている例(れい)もあります。
だれのお墓かわかりませんが、奈良山丘陵には石のカラト古墳(こふん)がつくられています。
庶民(しょみん)は、ほとんど、お墓をつくれなかったようです。つくったとしても、たんじゅんな土葬(どそう)だったようです。死体をそのまま捨てられた例(れい)が、羅城門(らじょうもん)の南を流れていた川の跡(あと)から見つかっています。