正倉院(しょうそういん)の宝物は、仏教(ぶっきょう)を深く信仰(しんこう)し、東大寺の大仏(だいぶつ)をつくった聖武(しょうむ)天皇がなくなったときに、妻(つま)の光明皇后(こうみょうこうごう)が、聖武天皇が大切に使っていた品々や宝物を、大仏へのおそなえものとして、東大寺におさめたことに始まります。
また、平安時代になり、東大寺の※大仏開眼会(かいげんえ)や貴族(きぞく)の儀式(ぎしき)などで使われた道具などが、正倉院の宝庫に保管(ほかん)されました。
それらの宝物は、遣唐使(けんとうし)らが唐(とう)から持ちかえった美術工芸(びじゅつこうげい)品、ペルシャやインドなどからシルクロードを通って運ばれてきた品物です。現在(げんざい)、整理(せいり)された宝物が9000点あり、まだ未整理のものもたくさんあります。
ふつう、1300年前の物となると、発掘調査(はっくつちょうさ)などで発見される場合がほとんどですが、世界中で正倉院宝物だけが、当時の地図や文書から、高度な技術(ぎじゅつ)の美術工芸品まで、まとまって、しっかりと倉庫(そうこ)に保存(ほぞん)されているのです。それらは、奈良時代の研究になくてはならないだけでなく、世界の文化の宝庫(ほうこ)ともいわれています。
※人の手で作った大仏さまに魂(たましい)を入れるための儀式
正倉院にある五絃琵琶は、聖武天皇(しょうむてんのう)の遺品(いひん)で、現在(げんざい)では世界でたったひとつしかないとても貴重(きちょう)なものです。楽器のルーツは、インドから北魏(ほくぎ)に伝(つた)わり、日本に来たものです。胴には、貝殻(かいがら)やべっ甲(こう)の螺鈿細工(らでんざいく)で、たいへん美しい駱駝(らくだ)、樹(き)、鳥の絵がえがかれています。現代(げんだい)の職人(しょくにん)もまねできないような、たいへん高度な細工技術(さいくぎじゅつ)だそうです。
写真は鏡の裏面(りめん)で、貝殻(かいがら)の光る部分をみがいて薄くした螺鈿(らでん)や樹脂(じゅし)が固(かた)まってできた琥珀(こはく)で飾られています。よく見ると、花や鳥がデザインされています。鏡は現在のものとは違い、鉄(てつ)や銅(どう)を磨(みが)いて作られました。
棊局(ききょく)とは碁盤(ごばん)のことで、棊子(きし)は碁石(ごいし)です。聖武天皇(しょうむてんのう)が愛用(あいよう)していたものの一つといわれています。碁盤の側面(そくめん)には、ラクダ・草花・鳥などのモザイク[木や象牙(ぞうげ)の小さな部品(ぶひん)をよせて作った絵]があります。碁石の一つ一つに花をくわえた鳥がかかれています。
奈良時代(ならじだい)や平安時代には、双六でのかけ事が流行し、禁止令(きんしれい)が出されるほどでした。正倉院(しょうそういん)にも、聖武天皇(しょうむてんのう)が使ったとされる双六盤(すごろくばん)がのこされています。
双六は大陸(たいりく)から入ってきた遊びです。トルファンから出土(しゅつど)した双六盤は、正倉院に伝わるものとそっくりで、同じ工房(こうぼう)で作られたもののようです。唐(とう)の皇帝(こうてい)から、日本の天皇(てんのう)とトルファンの王様におくられたのではないかと考えられています。
この屏風は、大きな木の下に唐風(とうふう)の女の人が立っている様子(ようす)をあらわしています。女の人の衣(ころも)やかみの毛、それに背景(はいけい)の木や岩には、鳥の羽毛がはりつけてあった事が分かっています。
しかし、トルファンの遺跡(いせき)から、そっくりの絵柄(えがら)をもつ屏風画が発見されています。向きはちがいますが、同じように木の下に女の人が立っています。この屏風画は2まい1組で、もう1まいには男の人がえがかれています。また、同じ絵柄は敦煌(とんこう)の洞窟壁画(どうくつへきが)にもあります。
大陸(たいりく)でこのまれるモチーフを取り入れながら、自分たちなりの方法(ほうほう)でそれを表現(ひょうげん)しようとした、昔の日本人の努力(どりょく)が伝わってきます。
「合子」というのは入れ物をあらわす言葉で、これは碁石(ごいし)を入れるために使われていたと考えられています。
うすい木の板に漆(うるし)をぬってから、その上に銀を切ってはりこむ「平脱(へいだつ)」というむずかしい技法(ぎほう)を使って、唐草(からくさ)と鳥の模様(もよう)がえがかれています。
ドイツのリンデン博物館(はくぶつかん)にも、正倉院(しょうそういん)のものとよくにた出土品(しゅつどひん)が伝わっています。
「瑠璃」とはガラスのことです。正倉院(しょうそういん)におさめられている白瑠璃碗はペルシャで作られたと考えられています。そのペルシャ[現在のイラン]からは、正倉院のものとよくにたガラスの器(うつわ)がたくさん見つかっています。
正倉院の器は、はるばるペルシャから、ラクダにつまれてシルクロードをこえ、遣唐使(けんとうし)の船に乗って日本にやってきたものです。
白瑠璃瓶 |
ガラスがはじめて作られたのは、紀元前(きげんぜん)1600年のメソポタミアか、エジプトだと言われています。
正倉院(しょうそういん)には、ガラスでできた碗(わん)、瓶(びん)、杯(はい)などの器(うつわ)、きれいなガラス玉の装飾品(そうしょくひん)などがたくさんおさめられています。これらは、0〜400年代にメソポタミアやイラン、アゼルバイジャンで作られて、シルクロードを通って日本にやって来たものです。
ラピスラズリは、アフガニスタンのバタフシャン地方でとれる、きれいな青色の石です。
粉末(ふんまつ)にして群青色(ぐんじょういろ)の顔料(がんりょう)としたり、みがいて宝石(ほうせき)に使ったりします。
ラピスラズリを加工(かこう)する技術(ぎじゅつ)はイランで始まり、エジプト、ギリシア、ローマ、中央アジア、中国、朝鮮(ちょうせん)、日本に伝わりました。エジプトではツタンカーメン王のマスク、中国では硯箱(すずりばこ)、正倉院(しょうそういん)には紺玉帯(こんぎょくのおび)というベルトなど、ラビスラズリが使われた宝物(ほうもつ)があります。
漆胡瓶(しっこへい) |
漆は、うるしの木から取れる樹液(じゅえき)のことです。漆には、刀のさびを止め、木をじょうぶにするなどの効果(こうか)があり、石器(せっき)時代から使われていました。
漆を使ってお椀(わん)など、美しい工芸品(こうげいひん)をつくる技(わざ)は、中国から伝わったものです。しかし、日本は、漆細工(さいく)のための温度と湿度(しつど)が適(てき)していたので、新しい技が考え出されました。奈良時代には、日本の漆は大陸への貢(みつ)ぎ物にもなっていました。
現在(げんざい)も、輪島塗(わじまぬり)など、各地に漆器(しっき)をつくる高度な技術(ぎじゅつ)がのこされています。
うるしの木は、日本だけでなく、中国、ミャンマー、タイ、ベトナム、インドなどにも多く生えています。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、邪馬台国(やまたいこく)の真珠について書かれています。真珠は、海女(あま)が海中から取ってきた天然(てんねん)のもので、特権階級しか持てない貴重(きちょう)なものでした。中国から絹(きぬ)をおくられたお返しに、日本からは真珠を贈(おく)ったようです。
日本以外の国でも、古来、真珠は宝飾品(ほうしょくひん)として使われていました。セイロン島、ペルシア湾、紅海(こうかい)などでとられた真珠は、中国、エジプト、キルギスなど各地に運ばれていました。
日本では、古来より、真珠は宝飾品、仏像(ぶつぞう)の宝冠(ほうかん)として社寺へのそなえ物として使われていました。正倉院(しょうそういん)には真珠でかざった刀や、念珠(ねんじゅ)などがおさめられています。大仏殿(だいぶつでん)や太安万侶(おおのやすまろ)の墓(はか)からも、真珠を使ったものが出土しています。
真珠は呪術的(じゅじゅつてき)な意味を持っていたことが、神話のなかにでてきます。人間の命を「玉(たま)の緒(お)」と言い、「魂(たましい)」「霊(れい)」を「たま」と発音していることから、真珠も不思議(ふしぎ)な霊力(れいりょく)を持った玉であると考えられていました。
琥珀は、松柏科植物(しょうはくかしょくぶつ)の樹脂(じゅし)が、地中で化石となったものです。縄文(じょうもん)時代の琥珀のペンダントと思われるものが千葉(ちば)県から、また平城京(へいじょうきょう)、藤原京(ふじわらきょう)から岩手県久慈(くじ)産の琥珀が出土しています。
正倉院(しょうそういん)には、琥珀を原料とした薬、琥珀でできた双六(すごろく)の駒(こま)、数珠(じゅず)、腰飾(こしかざ)りなどがおさめられています。
バルト海沿岸(えんがん)では、紀元(きげん)前100〜200年代ころから、ギリシャやローマの商人たちによって、琥珀の交易(こうえき)が行われていました。